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生存教と死望教

2022/05/02

新学期が始まる頃に自殺してしまう子供が多いらしい。

自殺を選ぶ子供が多い事が周知されるにつれ、
この時期は子供の自殺防止が叫ばれ「死なないで」コールをよく見かける。
『死なないで』の声に踏みとどまる子供がいるなら、それはそれでいいのだろうとも思う。


けれども、私は大人の子供たちへの「死なないで」コールを見る度、違和感しかない。
言ってしまっては悪いが、見知らぬ子どもが自殺してもその情報が頭には残らない。
自殺の情報が入ってくる事はあまりない。あったとしても、とても小さな事件として、あっという間に忘れ去られてしまう。
本名が出てくる事は稀で、ほとんどがひっそりと消えていく。身近であったら別かもしれないが。

「死なないで」と訴えてる人達に聞きたい。
去年自殺した子供の名前を一人でも言えるだろうか?漠然と「死なないで」と言うのは簡単だ。けれども、そこには「不特定多数の誰か」しかいない。
『新学期が始まると自殺者が増える』という情報から「死なないで」と言ってるだけで、特定の誰かを思い浮かべることはほとんどないのではないだろうか?
ただのキャンペーンと化していて気持ち悪い。

「生きて」「大丈夫だから」「逃げて」「死なないで」

生きることが前提の話しか語られない。
そして、『逃げて生き延びた』人間の話が前面に押し出される。
彼らは『生きることがどんなにすばらしいか』を語る。
私から見るとある種の宗教にも見える。
名づけるなら『生存教』
『生きることのすばらしさ』のみを追求する。
もちろん、それで救われる人達は居る。そんな人達はそれでいい。

そして、『逃げられずに、生き延びてしまった』人間がそこに出てくる事はない。
「私も未だに死にたいんだ」なんていう大人が出てくる話は聞いた事が無い。

死を望むことが前提なのでこちらは『死望教』
こうなると、生存教の教義がひっくり返る。

『死ぬ気があるなら何でもできる』=『だから、死ぬことも出来る』
『世界は広い』=『死後の新しい世界を知る事が出来る』
『君たちの世界が狭いだけ』=『死後の世界は広いかも知れない』

どんな励ましの言葉も届かない人達がいる。
彼らに何かを訴えれば訴えるだけ、オセロがひっくり返るように言葉が裏返る。
なにせ、 「死後の世界」は解明されていない。
そこが地獄か楽園か、はたまた何もない無なのかという事も分からない。
幽霊としてこの世に存在するという話もあるが、それも分からない人間には分からないままだ。
結局、『生存教』と『死望教』の意見が一致するはずもなく、理解も出来ない。


そして、生存教にいる子供たちは「死なないで」で救えても、死望教にいる僅かな子供たちは生存教の重圧に耐えかねて死ぬ。

生存教は死望教を理解できないが、死望教は『自分の考えがおかしい』という事は理解している。
そこにさらに理解のない「死なないで」という矢が刺さる。
「生きて」「大丈夫だから」と言う言葉も矢でしかない。

「相談して」

と言われても、返ってくるのは「死なないで」であれば、目も当てられないと思う。

「死にたい」と言われたら、「(あなたは)死にたいんだね」と返したらいい。
否定も肯定もしない。
その後に「どうしてそう思うの?」でも「そっか。辛いんだね」でも、話を続けたらいい。

『相談して』ではない。
まず、話したくなる雰囲気づくり……それが難しい。

決して意見を押し付けずに相手の話を黙って聞く。相手が何も言わなくても、急かさない。そんな『傾聴の基本』を伝えた方が「死なないで」より有益じゃなかろうか。
とはいえ、意見を言いたくなるのが人間の性……難しい。