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私が現代版リメイク「どろろ」のアニメが嫌いな理由

2022/05/02



※ネタバレしています。
「どろろ」好きさんは、そのまま好きでいいと思うのです。
私はこんな感想を持ってしまったというだけの話を、つらつら書いてるだけです※





現代版「どろろ」のアニメを何度見返しても、嫌悪感しかない。
この嫌悪感は「オズの国の歩き方」でも感じた事を思い出した。「オズの国の歩き方」はゲームアプリ


「どろろ」の漫画も読んだし、昔のアニメも同時進行で放送していたので見た。
漫画も昔のアニメも嫌悪感は感じなかった。多少の退屈さはあっても、楽しく見る事が出来た。
けれども、現代版リメイクアニメは気持ち悪くて吐きそうだと思った。


「どろろ」と「オズの国の歩き方」のあらすじ


「どろろ」

『妖怪を退治して身体を取り戻す話』
醍醐(百鬼丸の父)と鬼神の契約で体の殆どをとられた百鬼丸と、百鬼丸に付き添って旅をするどろろ。
原作や昔のアニメでは百鬼丸の身体に取り付けられた『刀』を目的にどろろは百鬼丸に付きまとう。現代版アニメでは…百鬼丸の世話役(母親役?)として付きまとう。…正直、なんで百鬼丸についていったのか謎


気持ち悪さは後半にあるので、後半部分のあらすじ。
百鬼丸の弟、多宝丸が父親から百鬼丸退治を命じられる。
『百鬼丸の体一つで、この国が安寧が得られる』
という事で、百鬼丸と多宝丸の戦いに。
自分の身体を取り戻す邪魔をするなら、弟でも切り殺そうとする百鬼丸。
一方どろろは「そんなんじゃ。鬼になってしまう」と止める。
百鬼丸は寸でのところで多宝丸を切らない。
最終的に、多宝丸と縫(百鬼丸の母親)、寿海(百鬼丸の育て親)の3人が火の中で死ぬ。
百鬼丸は醍醐に「俺は人だ。お前も人として生きろ」と言って去っていく。



「オズの国の歩き方」

『オズの国を旅する話』
オズの魔法使いがベースになっている。
記憶のない主人公がオズから『魔女を訪ねろ』と言われてオズの国を歩き回る。お供はかかしとライオンとロボット。魔女を訪ねたら、記憶を取り戻せると信じて主人公は旅をする。

こちらも気持ち悪さは後半。
最後の魔女に会う前に、オズ(異世界を作った一人)から記憶を返してもらう主人公。
そこで初めて『オズの国』が異世界で二度と元の世界に戻れない事を知る。
さらに本当は旅をするのは自分ではなく、祖母だった事を知らされる。
祖母の旅が完結しなかったために、主人公は異世界に行く事になった。
最後の魔女に会うことで、祖母の旅が完結しなかった理由がオズ自身にある事が判る。
旅の最終地点、女神(こちらも異世界を作った一人)の元に行く事で主人公は死ぬ。
女神の計らいで主人公は異世界で生まれ変わる。



『どろろ』と『オズの国の歩き方』の共通点=嫌悪感のある点


・ 為政者(物語の中で立場も権力も強い人)が主人公の運命(目的)を決める。(意図的ではなくても結果的にそうなる)
・ 為政者は批判されない。されても、打消しの言葉が出てくる。
逆に主人公は為政者の敷いたレール以外を選ぶと批判される。もしくは罪悪感に苛まれる。
・為政者にはなんの損もない。それどころか主人公が上手く世界を丸めてくれる。
・為政者以外には命がなくなったり、大切な人がいなくなったり損害が酷い。

・それらを上手く『綺麗な言葉』でまとめて、感動的(?)に仕上げてある。

たぶん、この5つが揃っている物語が嫌いなのかもと思った。


まず、『為政者が主人公の運命を決める』はそのまま。
「どろろ」ならば、百鬼丸が身体を取り戻す羽目になってるのは醍醐のせいである。
「オズの国」でも、オズの失敗が主人公を異世界に飛ばして旅をさせる事になっている。

『為政者は批判されない』
現代版アニメ「どろろ」は面白いほどに、醍醐への批判はほとんどない。あっても「醍醐様も色々考えた上の事だ」という打消しの言葉が必ず出てくる。
「オズの国」でもオズは尊敬の対象でしかない。彼を批判するシーンは主人公が記憶を取り戻したときのみ。……それも最終的には主人公への「ごめんね」で終わる。

『為政者に損が無く、主人公が上手く世界をまとめる』
「どろろ」の醍醐は最後には百鬼丸に許されている。
「オズの国」も主人公が死んで世界が上手く動きだす。

『為政者以外の損害は甚大』
「どろろ」では百鬼丸の弟に母親、育ての親が死んでいる。醍醐は無傷(醍醐にとっても家族を亡くしてるかもしれないが、当人は無傷)
「オズの国」でも、元の世界の主人公の親や友人たちにとっては、主人公が失踪したままになっている。主人公も一度は死んでる。

『綺麗な言葉で……』
「どろろ」は最終的には「民の国を作ろう」となっている……具体的にどうやっては示されていない。
「オズ」は、主人公が旅をしてくれたおかげで世界が平和になりました。めでたしめでたしな感じ。



なぜ5つが揃うと気持ち悪いのか。

・ 為政者(物語の中で立場も権力も強い人)が主人公の運命(目的)を決める。(意図的ではなくても結果的にそうなる)
・ 為政者は批判されない。されても、打消しの言葉が出てくる。
逆に主人公は為政者の敷いたレール以外を選ぶと批判される。もしくは罪悪感に苛まれる。
・為政者にはなんの損もない。それどころか主人公が上手く世界を丸めてくれる。
・為政者以外は命がなくなったり、大切な人がいなくなったり損害が酷い。

・それらを上手く『綺麗な言葉』でまとめて、感動的に仕上げてある。

これが揃う物語と言えば……戦争というイメージしかない。
戦争の物語がまさしくこれだと、私は思ってしまう。

現代版アニメ『どろろ』の感想も見て回ったのだけれども……気持ち悪さが増幅しただけだった。

「最大多数の最大幸福(醍醐の国)VS人権(百鬼丸)」の物語だというのを見かけた。
違う。これは「不特定多数の最大幸福VS人権」だと思う。
『最大多数』というのならば、百鬼丸の犠牲を醍醐の国の民は知っていなければいけない。けれども、それはひっそりと行われる。誰も百鬼丸の犠牲は知らない。
知ったとしても、「だったら、そいつを再び鬼神にささげれば、再び元の平和な世界になる」と言い放つ。……その犠牲が自分の最愛の人間ならば出てこないハズの言葉だ。見知らぬ他人だから、そんなおぞましい事が言える。

見知らぬ他人(不特定多数)のために個人が犠牲になる。
それこそまさに、『戦中の思想』ではないのか?
「お国(不特定多数の最大幸福)のために(人権は)死ね」で、どれだけの人が死んだか…それを『善でも悪でもない思想』として捉えるのか。
手塚治虫先生が作りたかった物語が本当にこんなものなのか……と思ってしまった。

こんなものは対立軸にしてはいけない。
対立軸にするならば最後は『人権勝利』にして欲しい。
どちらにも言い分はあるね。だから人権は死んでね……は戦争賛美だ。
結果的に百鬼丸は死ななくても、百鬼丸の親兄弟が死んでいる。彼らの死は百鬼丸の代理にしか見えない。つまり、人権の敗北。



個人的には昔のアニメの『ただの毒親の話』に縮小化されてる方が良かった。
昔のアニメのラストは「お前なんか親じゃない」と百鬼丸が醍醐を切り殺す。
潔くて好きだ。



その他いろいろ


3人が死んだ理由

自殺なのか??という感想をちょくちょく見かけた。
個人的にはあれは、単に多宝丸を担いで逃げる時間がなかっただけでは?と思った。
もしくは、製作者側の都合かな。人が死んだ方が悲しくて感動的でしょ?

鬼になる

なぜだか、現代版アニメ「どろろ」では、『人ではなくなる』『鬼になる』という言葉が腐るほど出てきた。
昔のアニメ「どろろ」では最後に醍醐が鬼(異形の物)になって百鬼丸と対峙する。
なぜに、百鬼丸の方が鬼にならなきゃいかんのだね。
さらになぜに、『人であること』がそんなに大事なのだろう?
自分の人権を踏みつけられても「人でいろ(大人しくしていろ)」としか、読み取れないのだけれども?気のせい?

お金に頼る国造り……でもその先は戦国

ラストはどろろが「親からもらったお金(親が隠し財産を持っていた)で民のための国を作る」という話になる。
が、ナレーションは「この先は戦国」と入っている。
何これ?本当に戦争突入を示唆しているアニメなの?
この先が戦国なのに、『お金で国を作る』となれば……お金の力で傭兵を雇って『他人に自分の代わりに戦争をしてもらう』が手っ取り早い気がする。もしくは『他の国から孤立して自力で生きる(壁を作る)』壁を作った場合は不作や疫病になった場合、外からの援助は望めないというリスクを負う。
どろろは第二の醍醐になるつもりなのだろうか?
もうちょっと具体的なお金の使い方を示してほしかった。
現代ならば、お金の使い方は教育になると思うが、この時代設定で唐突に『教育』なんていうキーワードが出てくるのはおかしくなってしまう。結局『傭兵を雇う』か『武器増強』みたいな形でしかお金は使えないのでは?


鬼になる条件

人を殺せば鬼だが、鬼神に我が子を差し出すことでは鬼になら無いって時点で……意味不明。
さらに醍醐は戦でたくさん殺してるはずだが、鬼にはなっていない。結果考えられるのは人に命令して人を殺してもOKという事になってしまう。
これも戦時中の話になってしまう。


鬼と仲良くなる桃太郎

これを書いていて浮かんだのは「最近の桃太郎は、鬼と仲良くなるんだよ」という話。
争いを好まない事は悪い事ではないし、鬼と仲良くなってもいいとも思う。
けれども、そもそもなぜ『鬼は退治されるのか(退治されようとしているのか)』が判っているんだろうか?
鬼は他人の金品を盗んだから「退治される」
それが、「悪かったよーごめんよー」で許されるなら、こんなチョロい事はない。
そんな口約束ではなくて、金品を返して、盗んだ人達に謝って、無償奉仕という罰が与えられてやっと許される(仲良くなれる)くらいは、書いてほしいなと思う。


悪さをして「ごめんね」で許されると思うのはおかしい。ある程度の罰と悪さが起きない対策&地獄を作らない対策は必要だと思う。



現代版アニメの「どろろ」は
「ごめんね」で全ての地獄が許されてしまう話だなと思った。
それ、何の解決にもなってない。せめて、希望的な未来を描けたらいいのだが、
描かれてるのは
『お金を使って民のための国を作る』というぼやんとした未来像。
さらに最初の方から公開されている『どろろは女』という設定が
「どろろと百鬼丸の恋愛成就する未来」みたいなラストになってしまっている。
いつから『どろろ』は恋愛話になったんだ?(恋愛がダメなのではない。問題山済みなはずなのに、それを無視して恋愛の話になってるのが気持ち悪い)



ここで終わるつもりだったけれども、さらに追加。



身体欠損差別を回避した結果の戦争賛美


「どろろ」はかなり昔に書かれた話だ。
今では『差別用語』と言われる言葉もたくさん出てくる。
今では「身体欠損」で差別(社会から疎外される)を行うことは許されない。
ということで、現代版アニメはそれを避けて作られたという話も見かけた。


差別回避が戦争賛美の話に変わるのは良いんですか?


「どろろ」は漫画版は未完らしく、唐突にどろろと分かれて百鬼丸一人で旅をするという話で終わっていた(と思う。記憶があいまい)
昔のアニメもどろろと百鬼丸は別れる事になっている。
どちらも「差別との戦い」が描かれている。所々に「足が無い。(手が無い)化け物だ!」と百鬼丸は助けた村人たちに嫌悪される。
が、今は差別はいけないので、それが描けない。
だからこそ、「民衆のために、百鬼丸の犠牲は必要だ(だからこそ、迫害される)」という話になったらしい。
……それを決めるのは誰ですか?民衆の総意ですか?総意ならばまだ救いがあるけれど、それを決めたのは為政者ですよね?
為政者(醍醐)の一声で個人(百鬼丸)が迫害されるなんて、差別(無知ゆえの恐怖を持つ集団)より質が悪い。
仮にその形にするならば、やはり「お前は間違ってる」と醍醐を討つ話になって欲しい。
誰かの一声で個人(もしくは特定の集団)が迫害されてはいけない。

差別に救いがあるのは『正しい知識』を持つことで、意見を変えることが出来る。
それこそが、「人間は変わる事が出来る」だと思う。

が、現代版「どろろ」は
「誰かに頼る幸せはもろい。私たちは自分で幸せをつかみ取らなければいけない」と言いながら、何も示されていない。(それどころか、そう言うのが為政者側の人間って……もやんとする)
仮にこの言葉を醍醐に当てはめるなら、醍醐もまた「自分(と民)の幸せのため」に、百鬼丸を鬼神にささげる事で幸せをつかみ取ったとも見えてしまう。
何の解決策も示していない。それどころか、第二の醍醐誕生の兆しさえ見えてしまう。

『自分の幸せを、民の幸せに拡大する』という事は容易だし、
「幸せをつかみ取る」為に「他者を犠牲にする」という事も容易だ。

「百鬼丸のような(人権を潰される)人間を出さない事」になってしまうのもおかしな話で、「醍醐のような(他人を犠牲にしても自分の幸せを選ぶ)人間を出さない事」の方が根本を断てると思う。
被害者支援は大切だが、加害者を出さなければ、被害者も出てこない。


どろろは
「目が欲しいなら、自分があにき(百鬼丸)の目になる」と言っていたが、これもまたおかしい。
どろろが言ってることは最初に醍醐が百鬼丸に対してやったことと同じだとすら思う。
醍醐は百鬼丸に対して「お前の代わりに私と私の民たちが幸せになる」と言ってるようなものだ。
誰も誰かの代わりにはなれない。百鬼丸の目の代わりも、どろろの目には出来ない。
どろろの言葉は『お金を持つ強者によるお金を持たない弱者搾取』というおぞましい感覚だと思う。
そんなセリフをさらりと「どろろ」が言う。
まるで、マリーアントワネットが「パンが無いなら、ケーキを食べたらいいじゃない」と言うようなものだ(実際にはマリーアントワネットはそんな事は言ってないが)
弱者に寄り添っているようで、全く寄り添ってはいない。
現代版アニメ「どろろ」の物語の後半はそんなセリフやシーンが満載だと思う。







こんな戦争賛美な「どろろ」は見たくなかった。