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不自由研究の苦痛

2022/05/02

夏休みに一番困るのは『自由研究』と言う名の「不自由研究」だった。

勉強の有益性は否定しないが、「自由研究」は未だに何の得になったのか分からない上に夏休みを無駄に悩ませるものだった。
最初は親もあれこれと案を出してくれたりもした。
そのうち自由研究の紹介しているものの丸写しになり、中学になると色々考えた挙句、前年度と同じものを提出するようになった。
考える事を放棄した。

中学3年の時、選ばれた自由研究の展示をすることになった。
その作業中、先生がぽつりと言った。
「結局、こーいうのって親のコネが必須なんだよね」
隣に居た友達が「どういう事ですか?」と突っ込んで聞いた。
先生は一つの作品を指さして、
「ほらこれ、顕微鏡で細かい粒子を調べてあるでしょ。
でもこれって子供だけじゃ絶対に無理。親が手を貸さないとできないんだよ」
とても判りやすい説明だった。
つまり、親が協力的ではなかったり、知恵や力(財力やコネ)がなかったら出来ない自由研究だという事だった。
改めて展示してある作品を見ても、そんなものが多かった。
大半の子供が自力で出来る宿題ではない……というものが「自由研究」という宿題だと先生自身が言っているのだと気がついた。

うすうす気が付いていたが、改めて言われると『なぜ、そんなものに悩まなければいけないのか』という、怒りが湧いてきた。

「ずるい」と友達が言う。
「ずるいよね。でも、それが社会だから」先生が言う。

自由研究は社会の残酷さを垣間見せるために設けられている宿題らしい。

今では自由研究のキットなどがあちこちで売られている。
親はそれを子供に買い与えて、自由研究終了なのだろうなと思う。

が、そうでは無い子もいる様で
「子供が自由研究に悩みすぎて、自由って何?と言い始めた」というようなツイートも見かけた。

自由研究の自由は『社会の不自由さ』なのだと思った方が良いと思う。
個人的には悩むだけ無駄だと思うので、早々に提出を諦めるのが正しいような気がしなくもない。
少なくとも、子供の頃の自分に声をかけるなら、「私には向いていないから、物語の一つでも書いておきな」と言いたい。
……自由研究よりも物語を書き溜めておけばよかった。と、今更ながら思う。

自由研究を出さなくて怒られても大丈夫。大人は『今までの癖』で自由研究を止めるタイミングを見つけられないだけだって言いたい。
子供の適性に合わせて夏休みの宿題プランを立てるみたいなプロフェッショナルな仕事を見てみたい。(先生の仕事が増えるだけとか、言われそうだ)