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死刑制度について考える

2022/05/02
障がい者施設を襲った事件の判決が出た。


死刑


新聞のコラムに「これでは、『障がい者を殺してはダメだ』と言う事が伝わらない。むしろ、殺してもいい人間がいるという事になって。加害者の意見を肯定してしまう」というような事が書かれていた。


誰もが『死刑』を望んでしまいたくなる事件だった。
けれど、それを望むという事は、加害者の『役に立たない人間は死んだ方がいい』という意見を肯定してしまう。

この世界に役に立たない人間はいない。
何をしても許されるわけではないが、『殺してもいい人間は存在しない』
意思疎通ができなくても、『そこにいるだけで良い』人達がいる。
と言うような事が記事には書かれていた。


私個人としては、『死刑反対』

けれども、そう声高に叫んで家族や身内、大切な人が殺されても同じことが言えるのかと自問した。
10年前だったら、『殺されたら死刑と言ってしまうかもしれない』と思っていた。
今は少し違う『苦しませずに殺したなら、生きて償え』と思う。『苦しんで殺したなら、同じ苦しみを味わって生きろ』と思う。
死はただの『安楽』でしかない。そんな生ぬるい刑罰で許されるなんて、許せない。
死にたくなるような地獄を味わってほしいと思う。


私にとって『死』が極刑ではない。
だから、反対。


そしてもう一つ、『冤罪だった時に取り返しがつかない』と言うのもある。
例え、裁判で有罪になろうとも、それが『事実』かどうかは別の問題だ。
冤罪はありえる。

人間は間違う生き物で、確実な事なんて一つもない。

生きていれば、間違いにどう対応するかと言うことも出来るが、死んでしまった人には出来ない。

死は、取り返しがつかない大きな過ちにしかなら無い。
『極刑』は、『究極に取り返しがつかない刑』だ。



ツイッターを見ていると
「なぜ、人を殺していけないのか」の答えとして「人が獲得した英知だから」というような事が書かれていた。

「人は長い間殺し合いをして来た。けれど、そこから徐々に『殺しはダメ』というルールを作り、守り、獲得してきた。これは先人たちの英知なのだから、殺しはダメなのだ。私たちはもう、野蛮人には戻らない」

というような感じだったと思う。

なるほどと思った。先人たちが必死で獲得した『英知』を、今を生きる私たちが侵してはいけない。
『人を殺すのは野蛮人だ』
話し合いや他の方法というやり方を私たちは学んでいる。
ダメだからダメと言うよりも、納得してしまう。

『殺す以外の方法の模索に頭を使う』というのが、何となくカッコよく思えた。



事件に話を戻す。

『障がい者は殺していい』わけではない。

けれど、『自分が死んでもいい』は容易に『他者を殺してもいい』に切り替わる。
他の事件でも、よくある話だと思う。
そして、『自分が死んでもいい』と思ってる人は『自分の居場所』と思える場所に出会えば、『他者を殺す』事の意味が分かると思う。それは『他者の居場所を奪う』と言う事。
大切で特別な『居場所』を奪ったという事。


それを理解させずに死刑で終わらせるのは、なんだか悔しい。



『死んでもいい人はいない』
そう言い続ける事で、『殺される人』も居なくなると信じたい。