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場面緘黙は喋る機能があるから起きるのか?

2022/05/02

5月は場面緘黙ばめんかんもくの話を書いている。
これで最後の予定。


場面緘黙に関する詳しい話は調べてね。と思う。

私がもう書くのをやめようと思ったのは、他の人がたくさん書いているから。
書く必要が無い。
そして、下手に目立つと『めんどくさい事態になる』というのにもウンザリしているから。
このブログもひっそりでいいと思っている。

誰かの心に届いたらいいという、表面的な感覚はあるけど
誰の心にも届かなくてもいい。


めんどくさい事になるからという事の他に、
『下手な同族意識は、差別意識と同等である』とも思っているから。

「全く喋れない人は場面緘黙で苦しんでいるけど、小さい声でも喋れるならそれは場面緘黙でもないし、喋れるんだからいいじゃん」
「タブレットなどの機材を使ってしゃべってる、場面緘黙ではない」


場面緘黙であろうとなかろうと、苦しい事に変わりはないのに、
『口があるなら喋れるじゃん』と同じ『小さい声でも喋れるじゃん』と当事者(?)が言い合う。
不毛でしかない。


そーいうのを見ると、ウンザリする。

別にそんなことは場面緘黙だけじゃなくて、
「リストカットをしてないから、あなたの苦しみは大したことが無い」
とか
「薬を飲んでないから、あなたは大丈夫」
とか
「友達がいるなら、平気でしょ」
とか。
色んなものに当てはまる。
何かを持っていたら、苦しみは無かった事にされてしまう。

ないものに、ないものの苦しみがあるように
あるものにだって、あるものの苦しみがある。

場面緘黙も、ある意味『口(喋る機能)がある故の苦しみ』であるのに、
『喋れない』という『ない』部分にだけ目を向けられる。


『生まれつき喋る機能を持たない人間に、場面緘黙は存在するのか』

似たような事例で、『聞こえない人』の場合は、場面緘黙が存在するというのを見かけた事がある。……詳細を忘れてしまった。どこまで事実かは分からないケド。
けれど、『喋る機能を持たない人間』に場面緘黙が存在するかどうかは見た事が無い。
無いのかあるのか、疑問だ。


……次に書く時は、『喋る機能を持たない人間にも、場面緘黙は存在するかどうか』という話を書きたい。
いつになるか分からないけど。


場面緘黙は『喋る機能があるから、苦しみと不安が湧く』と私は思ってるけど、
喋る機能を持たない人は、場面緘黙に似た症状は起きないのだろうか?
『他者へ伝える恐怖』から『伝える事の放棄』をしないのだろうか?