介護の果てに祖母を殺したというニュースを見かけた。
政府が「自助・共助・公助」を掲げるのはおかしいという意見を見かける。
同意しかないが、ド田舎ではすでに『自助ありき』を市町村長が声高に唱えている。
若者に対して、大学を出て立派な大人になったら、家族の為に戻ってきてと……町の長の言葉として、数年前の広報に載っていた。
地方ではすでに、『建前』なんてものに構ってられないほど疲弊していた。
それが、国にまで波及したのか、政府のお偉方と庶民の感覚が離れすぎているせいなのか考えてしまう。
どちらにしても、『自助』は限界しか見えない。
限界の世界に、『自助』を求めるのは国は頼りにならないよと自ら言っているだけに過ぎない。
地方自治はすでに国から見放されていて、疲弊しながらギリギリの綱渡りという場所がほとんどだろう。
個人になるとさらに疲弊は『殺人』へと変わる。
今までも介護殺人はあった。
この事件はまだ成人間もない若さで周囲に介護の大変さが理解されず、『頑張った結果』の殺人。
体力も気力もある人間すらも潰される。
自助とは、『限界を超えて、家族内で殺し合え』と言う事。
明日は我が身。親を殺す覚悟があるか。それとも見捨てる覚悟を持つか。
政府がつきつけている『自助』とは、家族内殺人推奨にしかみえない。
そして、それは今後ますます広がると思う。(殺人事件の殆どが家族内殺人らしいけど…その率が増える…のか?)
介護の覚悟は親を捨てるか殺すのどちらかを含めた覚悟で、『最後まで看取る』のは幸運な事なのだと思う。
逆もまた覚悟する。
自分の身体が親よりも先に不自由になった時に、どうか『見捨てる』という選択を家族がしますように。
家族に殺人の汚名を着せるくらいなら、見捨てられる事を望む。
自助努力の果てに、無縁仏になりたい。
無縁仏の数は増えてるのだろうか?