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セクハラに思う事

2022/05/03

某有名人が、セクハラ自白をして仕事が減ったという話を見た。

セクハラをした方は『これくらい、セクハラではない。他の女性にもやっている』というようなコメントをしたとか。


いつもやっていることなのに、なぜこの女はうだうだ文句を言うのか……という雰囲気を感じる。


父もよく言う。
「何でもうるさくて、生きにくい世の中になった」


60年以上も生きていれば、人生も後半で価値観は固定化し、新しい価値観に拒否感を持つというのはよく分かる。
私もまだ父の歳の半分くらいだが、自分の固定化している価値観に愕然としてしまう時がある。同時に新しい価値観には拒否感を持ってしまう。


でも、世界は常に『新しいもの』を求めている。そして、常に『新しく生まれ変わる』
差別や嫌がらせは、出来るだけない方がいい。


父は世の中の不条理には怒るが、セクハラパワハラには寛容だ。
それは、父自身がセクハラパワハラを『する側』だからだ。それは無自覚で、無感覚で、呼吸と同じように、『いつもしている』のだが、当の本人は気がつかない。
なんなら、それを「相手のためのアドバイス」とすら思っている。


周囲もすでに『そんな人』と諦めて、注意すらしない。


ここに、『それはセクハラ・パワハラですよ』と指摘する人が現れたとしても、上記のように「うるさい時代になった」としか思えない。
指摘した人間については、「嫌な人間」としか感じない。


セクハラ発言の有名人さんの記事を読んで、うちの父と同じ感覚の人なんだなと思うと同時に、恐らく60代ぐらいの男性の大半はその世界に住んでいるんだろうなと思う。


自分が歩いている道で、雑草を踏んでも気にもとめない。……たぶん、そーいう事なのだろう。
セクハラパワハラは、雑草を踏むのと同じことなのだと思う。


そんな絶望と、それをちゃんと指摘する人がいることへの希望を感じる。




父への指摘は出来ませんよ。一度だけ、指摘したけれども本人の中で自覚がないので、全く響かないし理解できてないみたいでした。
なのでこちらは、いかに不快を減らして適度に接触を避けつつ、相手を不快にしないようにするかという謎な気づかいに疲れ果てる。



気がついていないものを、気付かせるというのは難しい。