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アニメ「どろろ」に思う事3

2022/05/03


疑問追加。



:百鬼丸の身体と立場

この物語が残酷なのは『生きていればそれでイイだろ』と突きつけてくるところだ。
生きていれば、手足が要らないのか。目は要らないのか。耳は要らないのか。
そんなバカな事があるか……という事を誰も言わない。
百鬼丸だけは別だが、身体がいると言っても誰も聞いてくれない。

なぜ、と何度も問いかけるが

『鬼になるからダメだ』『人ではなくなる』

と、誰もが答える。では、身体のない百鬼丸は人として認められているのか……というと、認められてはいない。
百鬼丸に『ダメだ』という人達は、百鬼丸を赤ん坊だと思っているから止める。

『人ではなくなる』と言いながら、百鬼丸を人として見ているキャラクターは一人もいない。
だから、百鬼丸はとても孤独に見えてしまう。

これだけ主人公が阻害され、味方一人いない物語は見たことがない気がする。


:縫の方と寿海という親の姿

アニメを見て思ったのは、こんな親ならいない方がマシだなという事。
醍醐は最初から親ではないが、縫の方と寿海は親の皮をかぶった他人にしか見えない。

12話
縫の方「百鬼丸。許してください。わたくしは……わたくしは、
そなたを救えませぬ。
どれほど人の道に劣るとも、そなたの苦しみを知っていても、それでも我が国はそなたに許しを請うしかありませぬ。我が国は修羅となってそなたを食い続けるのみ」

親が子供に向かって、救えないと言ってしまうのには驚いた。
許してほしい……までは、分かる。だが、救えないという事は、救えると思っていたという事だ。なぜ、救えると思ってしまうかと言えば、他人だからだ。
もっというならば、自分には救える力があるという『おごり』があるからだ。

お釈迦様でもない限り、誰かを救うことは難しい。「助けられなかった」という事実と罪悪感は分かる。しかし、「救えない」なんて思えるのは自分が優位にいると思っている人間だけだ。

縫の方の発言にさえ驚いていたのに、さらに17話で

寿海「新しい義足は、お前をまた地獄へ近づけるだけだろう。わしには出来ん」
百鬼丸「おれは、ほしい」
寿海「すまぬ」
百鬼丸「なぜ」
寿海「わしは、お前を救えぬ。救えぬ」

百鬼丸「なぜ?俺のものだ。だから、鬼神は全部、殺す」


寿海もまた、救えぬと言い放っていた。
何故そんなにも、百鬼丸は救われなければいけないのか……。たぶん、百鬼丸が地獄の責め苦にあっているのを知っているからだ。ただ、知ってはいるが、自分もまた地獄の鬼となって百鬼丸を責めているという事には無頓着。

虐待親が、虐待されている子どもに対して「お前を救えない」と言っているようなものだな……と思った。
地獄に突き落としているのは、自分という事を忘れているのか、見ないふりをしているのか、それとも「救えない」と子供にいう事で、子供をさらに地獄に突き落としたいのか。


悲劇は過ぎると喜劇になるというけど、その良い例なのかなとも思ってしまった。



:どろろの立ち位置

アニメが一番残念なのは、どろろが百鬼丸の敵ということ。

どろろは「あにきが身体を取られる苦しみを分かっているのか」と、言っている。
しかし同時に、「身体くらい、鬼神にあげちまえ」とも言う。
なぜなら、「身体を取り戻すと鬼になるから」

どろろは、身体を取られる苦しみは分かっていない。分かっていないのに、分かっている風な口をきく。なので、とても気持ち悪いキャラだなと思いながら見ていた。

23話
どろろ「欲しけりゃ。おいらが、目になってやる。手足になってやる。だから、鬼になっちゃダメだ。死んじゃダメだ」


なぜ、他人の目になれると思えるのか。手足になれると思うのか。
『おごり』満載で、ウンザリする。せめて、金を使って最高の義手・義足・義眼・その他身体を与えると言った方が、まだマシだ。

どろろの「あにきの苦しみが分かるか」というのは、単に自分の中の罪悪感を消すための言葉でしかない。
分からないが、分かったふりをして『味方』でいるための言葉。


:民とは何か

百鬼丸を食わせたのは『民のため』となっている。

22話
若者1「戦のためにたくわえを取られたり、流行病が出たって村を焼き払われたり、どこにも行くところがなくて、こうして身を寄せ合っているってわけよ」

22話で行き場をなくしている醍醐の民が描かれる。
戦は百鬼丸のせいではない。流行病が出ても、村ごと焼き払う必要はない。これらは、醍醐が民に対してやっている。

『民のため』の民とは、『自分の身の回りにいる人間』でしかない。
だから、陸奥や兵庫が描かれる。部下想いの世継ぎのいる国として。

それ以外は、百鬼丸が食われても喰われなくても、放置される。
しかし、醍醐への批判はない。

22話
若者2「醍醐景光とて、民が憎くてした事ではあるまい。国を守るため、彼なりに考えた上での行動だ」
若者1「同舟はすぐ悟ったような事を言いやがる。俺はあの奥方にだってガツンと言ってやりたいんだ」咎める声。
「わかってる。けどよ。このままじゃ。俺たちあんまりみじめじゃねぇかよ。侍どもの都合で、俺たちいっつも振り回される。たまんねぇよな」

これは、ただの愚痴であって批判ではない。その愚痴にさえ、醍醐の想いをおもんばかるキャラが出てくる。

考えない民というのはこれほどに扱いやすいものなのだ……という話なら、見ていられるのにな。
誰も指摘をしないので、『気持ち悪い物語』が気持ち悪いまま横たわっている。



:百鬼丸は人になれたのか。

何度も「人ではなくなる」という言葉を百鬼丸に投げかけていたが、そもそも『人って何だ?』と、頭をひねってしまう。

物語の中では「人を殺すと鬼になる」となっている。(でも、百鬼丸は人を殺している事になってるので、すでに鬼なのでは?……と思ってしまう。その部分は「敵だから良い」というルールで逃れているのだろう)

とにかく、鬼については前回に書いた気がするので、書くのはやめる。


23話
琵琶丸「力を求めていきつく先は、修羅鬼神かもしれないよ。と言って、力を持たず、争わず、仏の道、情けの道を行けば、どちらに振り切れても人じゃなくなっちまうのさ」

縫の方「人は結局、そのはざまで、もがいていくしかないのかもしれません」

どろろ「力じゃねぇ。心もちさ。そいつがしっかりしてりゃ。鬼になんかならねぇ」

23話での会話で、結局、「心もち次第で、鬼にならず、人のままでいられる」という事になっている。突っ込みたい。「人を殺したら鬼になる」と言っていたどろろが、結局は心持だと言ってるなら、百鬼丸を止める理由がなくなってしまう。

そして、仏の道情けの道でも「人ではなくなる」と言っている。しかし、そこには「鬼になる」という言葉は続かない。「人ではなく、屍になる」という意味だろうなと察する。

そう考えるなら、百鬼丸が自分の身体を取り戻さないという事は屍になる事だと思う。

鬼と屍の間が、人であるならその幅はとても狭いし、生きている人間全てが鬼になる可能性を秘めているとも言える。


24話
多宝丸に対して
百鬼丸「わからない。ただ、同じだ。お前も。お前は人だ」

醍醐に対して
百鬼丸「俺は人だ。あんたも鬼神になるな。人として生きろ」

最終話で百鬼丸は多宝丸(弟)と醍醐(父)に対して、『人』だと言っている。
自分を鬼神に食わせた本人(父)と、自分を鬼神に食わせようとしていた人間(弟)に対してである。

なぜ、『人』でなければいけなかったのか。正直、分からない。
百鬼丸が「人」である必要性はゼロだし、そこにこだわるのは、どろろが散々「人じゃなくなっちまう」と言ったせいでは?と思う。

百鬼丸にとって人とは、「人を殺さないもの」でしかない。鬼神でなければ、人なのだ。
でもそうしてしまうと、「生きていれば、他はどうでもいい」という事になる。つまり、身体を持たぬずに生まれた百鬼丸は、「酷い事はされていない」事になる。

子供への虐待も同じで、生きて成人してしまうと「生きているからいいじゃない。それでも、親は育ててくれたんだから」という言葉を投げる人がいる。
それを地で行く物語が、アニメどろろ。


親のやった虐待は、子供が育ったことで無かったことにされる。
周囲も、「親を殺す(ほど憎む)なんて」と言い出す。

『醜悪な現実を美しい物語で包む』物語。





色々書いていて、やっとわかった。
愚者の為の物語と思うと、アニメ「どろろ」は苛立たないで見る事が出来る。


為政者としての醍醐は、責任一つとらず逃げ出す愚者。
民は痛めつけられても、仕方ないと諦める愚者
どろろは、金さえあれば幸せが訪れると信じる愚者

百鬼丸は、同調圧力に屈する愚者

縫の方・寿海は、親の立場をはき違えている愚者。
多宝丸は洗脳された愚者




というわけで、私は、アニメ「どろろ」が嫌いです。