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アニメ「どろろ」に思う事2

2022/05/03


疑問点を書き連ねてみた。

:醍醐は何のために百鬼丸を鬼神に喰わせたのか。
1話目の最初にがっつりそのシーンがある。

醍醐「このままでは生涯の望み、我が名を天下に轟かせることなど夢のまた夢なり (略) 我が領土を守護し我に天下を握らせるならば、それより他に我が手に入るものをやろう」

これがこの物語の筋である。大抵の物語は『弱者が強者を打つ』ことで、それは『悪』だとしめすが、アニメの「どろろ」はなぜか途中から「国のため。国の繁栄ため」となっている。
このアニメの怖いのはそれを『綺麗事だ』と誰も言わない。
一部「綺麗事」だというキャラはいるが、結局は「国のためというのも分かる」「(最初の生贄は無視して)人を殺すのは良くない」と綺麗事に共感する。

「国の為の犠牲は、必要」という思想は、この物語の中で必須の価値観になっている。



:なぜ、百鬼丸は「赤ん坊」だと言われるのか。いつ、誰が言ったのか。

百鬼丸は最後まで「赤ん坊のようだ」と言われるの気になってたけど、気にしないようにしようと思ってた。改めて、どこで誰がだったかを見直した。

6話で琵琶丸が言っている。

「赤ん坊がおもちゃを取られたら、怒って取り返すだろう。それと同じなのさ。
その上、取られたのが自分の身体とあっちゃね。穴倉から出て出来たもんが、鬼だったって事にならないようにしなよ」

弱者による弱者叩きにしかみえない。

「自分の身体を奪われても怒らないのが大人だ」という醜悪な話にしたいのは健常者(強者)の物語でしかない。
これが盲者キャラの口から発せられるのは、気持ち悪さが倍増する。言わせたいなら、健常者キャラでお願いしたい。


さらに同じ事を21話で縫の方(百鬼丸の母)が言っている。

縫の方「今の百鬼丸は、とりあげられた玩具を泣いて取り戻しに来る幼子のようなもの。きっと誰の言葉も届かないでしょう。そして、それは醍醐のため、修羅の化身となろうとする多宝丸も同じ。領主の妻か、子を持つ母かどちらか一方であったなら、己の無力さを呪う事もなかったでしょう」


こちらはこちらで、醜悪だなと思う。
百鬼丸が赤ん坊だった時の記憶しかないのだから、幼子のイメージで大人が話をするというのはよくある事。
なのだが、それを差し引いてもこれはただの、『己の無力さ』を百鬼丸に投影しているだけにしか見えない。
縫の方は百鬼丸を幼子に例えて言いながら、自分自身が幼子のように無力であることを嫌悪している。
これが『母の言葉』として出てくるのが、気持ち悪い。

縫の方は我が子の身体を『玩具』といい、身体を取り戻すことを『幼子が玩具を取られて泣いている』という。
縫の方は、『玩具』を産んだのかと突っ込みたい。

領主の妻ならば、我が子を玩具にすらしてしまうという意味なのだろうか。
正直、このセリフの中に『子を想う母の想い』は一欠けらも感じない。



:なぜ、多宝丸・寿海・縫の方は火の中で死んだのか。

百鬼丸が罪悪感を抱く様に……としか、見る事が出来ない。
必死になって生き抜く姿も描かれてないのには、別の意味ですごいなと思う。
多宝丸はケガで動けないというのは分かるが、縫の方も寿海ものんびりしすぎてて『心中するために火が回る城に来た』と言われた方が納得する。


:兵庫と陸奥はなぜ、馬に蹴られるような酷い死なのか。

この二人もまた、百鬼丸と同じ『生贄』なのだと思う。
国の犠牲となって散っていく、百鬼丸が辿っていたかもしれない運命。

だから、この二人は傷ついてボロボロで馬に殺される。
人が殺してしまうと殺した人が鬼になってしまうので、殺すのは人であってはいけない。

百鬼丸にあれだけ
『鬼になるから、人を殺すな』といっているのに、他の人が人を殺すのは困る。
百鬼丸も鬼にならない予定なので、兵庫と睦を殺すことは出来ない。
ということで、馬なのかなと(でも、原作で馬の話はあるので、そこまで深い意味はないかも)



:百鬼丸はなぜ、醍醐や多宝丸を切れないのか。

「鬼になるから」だと思う。
この物語は『国のため。民のため』という綺麗事から始まって。
『人を殺すと鬼になるから、ダメだ』という綺麗事で終わっている。

最初に百鬼丸を生贄にした事は、縫の方(百鬼丸の母)が仏に祈って
【命を取られなかった】事で、醍醐も醍醐の民も鬼ではない事になってしまっている。

この物語では、戦での人殺しは鬼にはならない。


『人を殺してはいけない』

それは一見正しそうに見えるが、そこには「自分と自分の仲間以外は敵であり人ではないので殺していい」というルールがある。
だから、戦での人殺しは「人」ではなく「敵」となる。敵を殺しても鬼にはならない。


『鬼になってはいけない』

とは言うが、それは『人(敵)を殺す事』でしか成り立たない。
敵を殺す百鬼丸は鬼になりようがないが、最後には『醍醐も多宝丸も仲間』だと認めてしまう。
だから、殺せないのだ。

ただ、これは『人間性を得た』わけではなく、『同調圧力に屈した』のだと思う。

百鬼丸は怒りの塊だった。そこに弟の「母を返せ」という言葉が来ても、そもそも百鬼丸も母親とは一緒に暮らしていなくて、少し前まで存在すら知らなかったのだ。
どうやって、「お前も辛かったんだな」と思えるのか。

だったら、どろろが百鬼丸に言っていた「鬼になるな」という言葉に屈したと言う方が納得できる。


個人的には鬼になって、業を背負う百鬼丸を見たかった。



『鬼になっても、取り戻したいものがある』
という物語ではなくて

『鬼にならないために、その身を差し出す』事が美徳とされる物語。
それがアニメ版どろろだと思う。

+『ただし、その身を差し出すのは弱者のみ』というのも追加で。
強者(醍醐)は何も差し出さず、痛みもなく許される。生き残っている。



:醍醐はなぜ、無傷なのか

多宝丸(子供)も縫の方(妻)も陸奥・兵庫(部下)も、死んだのに醍醐は無傷で去っていく。

元凶が無傷で去る。
子供も妻も部下もすべて『生贄』としてささげた甲斐がありましたね……と思ってしまった。

国もどろろのお金で、そのまま生活している。
民もある意味無傷である。

さらに醍醐は最後に「お前が跡を継いでいたら」とまで言う。
どの口がそれを言うか。それを言ったら、多宝丸はどうなるのか。
死んでまでこの国のためにと闘った我が子を何だと思っているのか。

どこまでも、醍醐は身勝手である。

生まれたばかりの我が子を鬼神にささげ。
妻がわが身を鬼神にささげることは許さず
育て上げた我が子は、跡継ぎには相応しくないと結論付ける。

『国のため。民のため』と言っていた君主は、結局はただの暴君でしかない。
その暴君は最後に、生き延びる。(死の描写はない)

この物語で、何の代償も責任も負わなかったのは醍醐一人。
一番の元凶なのに、死ぬことも傷つく事もないのはすごいなと思う。


:どろろのお金は新しい国のため?

最後、どろろのお金で新しい国づくりをする……みたいな事になっている。
どろろの新しい国は、頭を挿げ替えただけで『同じこと』の繰り返しになる可能性は大きい。


どろろも醍醐と同じように、お金で傭兵を雇い、戦を繰り返し、田畑を焼き、人を殺す。
戦国時代なのだから、戦を繰り返すしかない。
さらに鬼神の力を得る事が出来るなら、次はどろろが鬼神の力を借りて我が子を食わせる事すらある。

お金はいつかなくなる。稼ぐ方法、上手く活用する方法、どろろにはその知識がない理想論だけで新しい国を語るので、未来は真っ暗にしか見えない。



:ヘレンケラーと百鬼丸

漫画の百鬼丸は見えないが、光が見えて、テレパシーで話が出来てという万能型のキャラだった。
「本当の声ではない」が、どろろとの意思疎通が最初からできていて、「ついて来るな」とどろろを追いやっていた。

アニメの百鬼丸は、恐ろしいほど他者に関心がなく、食べるものも無頓着。
最初は、どろろにも関心は向けていない。ただ、目的ははっきりしていて、「鬼神を倒す」という事だけだった。

そんな事は可能なのだろうか?他者への関心を向けないという事はあるが、他者は嫌でも関わってくる。そこで、沸き起こる怒りは回避しようがない。

ヘレンケラー(サリバン先生)の本には「怒りにあふれた子どもだった」という言葉があった気がする。それは『他者には自分に言いたい事が一つも伝わらない』という怒り。
お腹が空いてもそれを伝える術がない怒り。
百鬼丸は食事をする。ということは、お腹がすくという感覚はあるという事だと思う。
ということは、成長後は自力で何とかするにしても幼少期は怒りにあふれた子供だった可能性がある。そして、痛みを知らないとなれば、子供とはいえ最強である。
……一室に閉じ込めて、食事だけ部屋に押し込むという感じだったのかな。


どろろに関してもまとわりついて来る人間という認識はあるだろうし、それを不快と感じていた可能性はある。どろろを叩き切って終わり……という話でもおかしくないかもしれない。

百鬼丸を身の回りに無頓着で他人に無関心のキャラにしたおかげで、『文字が書ける謎』が生まれる。他人に無関心なら文字は必要がない。それに戦国時代の識字率ってそんなに高くないのでは??でも、この辺りはファンタジー要素でそんなに考えすぎない方がいい部分なんだろうな。




これで終わる予定だったけれども、まだまだ、疑問が出て来てしまった。

さらに追記「どろろに思う事3」に続く